@本当の自分(属性:呪い)
”本来”の私はこんな人間では無い
”本来”の私はもっと活き活きしてもっと豊かでもっと幸福なはずだ
今の私は”本来”の私ではない
だから私は”本来”の私を探す
そう、『本当の自分』を探す
自分探しの旅の始まりである
@かばんちゃん で !!
かばんちゃん、という名前はサーバルが与えた
かばんちゃん、と呼ばれた女の子はそれを素直に受け入れた
彼女が『本当の自分』というものに、こだわりを持っていたら
「私の名前は”かばんちゃん”ではない。それは本当の自分ではない」(自撮りしながら)
と叫んでから自分探しの旅を始めていたはずである(SNS実況付き)
あるいは図書館で博士に、自分が『ヒトのフレンズ』と教わった時に
「私の名前は”かばんちゃん”ではない。それは本当の自分ではない」(自撮りしながら)
と叫んで、かばんちゃんという名前を捨てていたはずである(SNS実況付き)
しかし彼女はそうしなかった
彼女は「かばんちゃん」という名前を受け入れた
望んだわけでもないし、元になった動物の名前でも無いのに受け入れた
本当の自分でも、ありのままの私でもない、その押し付けの名前を受け入れた
かばんちゃんは何故かばんちゃんの名前を受け入れたのか?
なぜなら、その名付けを断ったらサーバルとの絆が絶たれると直感したからだ
『他者から呼ばれた名前こそが私の名前なのだ』
その不条理な宣告に同意したものだけが人に成れると直感したからだ
@名付け
名付けを受け入れることは役割を引き受けることだ
誰かを呼ぶのは、必要だから呼ぶのだ
助けてほしかったり慰めてほしかったり叱ってほしかったり
何かを頼みたくて呼ぶのだ
名付けを拒否することは役割を拒否することだ
名前のないものを呼ぶことは出来ない
だから名前のないものは何の役割も引き受ける必要がない
いや、引き受けることが出来ない
@ヤリチン☆ビッチ部
やっちゃんにとって『本当の自分』とは加島優のことだった
加島みたいな人気者に成りたかった
だから自分を偽って、成りたい自分を演じていた
しかし、その演技も遠野の前で馬脚を現した
やっちゃんは、認めたくない方の『本当の自分』を晒してしまった
遠野はやっちゃんが猫をかぶっていことにショックを受けたが
好き度は減らなかった
やっちゃんが捨てたかった『私』、つまり『加島みたいな人気者では無い私』を遠野は受け入れた
だから、やっちゃんは、救われた
本当の自分という呪いにかからずに済んだ
いま ここ のやっちゃんを遠野が受け入れたことで
矢口恭介の自分探しの旅は終わった
矢口恭介が最も恐れていたのは、お化けなんて可愛いものではなく
『本当の自分』という呪いのことだ
@呪い
本当の自分 と ありのままの私 は別のようで一緒である
それは我慢の拒否である
いま ここ に有る自分を我慢することの拒否である
ここではないどこかに本当の自分が有る
押し付けられた私を我慢しないで、ありのままの私を晒せばいい
そうやって現に与えられている私というものを耐えられない状態
それが自分探しの旅へと駆り立てる
どんな人にも終生の友人が二人居る
それは、いま と ここ である
彼らは『どこ』に行こうと必ず人に付いてきてくれる
だから、いま ここ に有る自分を我慢出来ない人間は
一生、自分を探すことになる
@セルリアン
セルリアンに食べられたフレンズは動物に戻る
つまり、ありのままの私に戻る
ありのままの私=動物には共通言語も記憶も無い
つまり社会との交流を完全に絶った状態
名付けを拒否し役割を捨てた、ありのままの私とは
そういうものに成るのである
@10年代のテーマは現状維持
いま ここ の私を受け入れる
与えられた名前と押し付けられた役割を引き受ける
そして当座の世界(いま ここ!)を動かしているものを守る
具体的には困っているフレンズを助ける
そういう地味な、ひたすらな地味な作業こそが人の仕事なのだ
裏を返せば
いま ここ の私を受け入れ無い
与えられた名前と押し付けられた役割を引き受け無い
そして当座の世界(いま ここ!)を動かしているものを壊す
具体的には笑っている支配者を挫く
そういう派手な、ひたすらな派手な偉業こそがヒーローの仕事なのだ
けものフレンズブームは癒やしを求めたものではなくて
ヒーローに頼らず、とりあえず自分たちでやって行こうとする成熟が呼んだものだ
ヒーローを求める社会とは、もはや破綻した社会なのだ
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