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2017年6月18日日曜日

『ヤリチン☆ビッチ部』と『けものフレンズ』は何と戦っているのか  ――vs本当の自分

@本当の自分(属性:呪い)

 ”本来”の私はこんな人間では無い

 ”本来”の私はもっと活き活きしてもっと豊かでもっと幸福なはずだ

 今の私は”本来”の私ではない

 だから私は”本来”の私を探す

 そう、『本当の自分』を探す

 自分探しの旅の始まりである

@かばんちゃん で !!

 かばんちゃん、という名前はサーバルが与えた

 かばんちゃん、と呼ばれた女の子はそれを素直に受け入れた

 彼女が『本当の自分』というものに、こだわりを持っていたら

 「私の名前は”かばんちゃん”ではない。それは本当の自分ではない」(自撮りしながら)

 と叫んでから自分探しの旅を始めていたはずである(SNS実況付き)

 あるいは図書館で博士に、自分が『ヒトのフレンズ』と教わった時に

 「私の名前は”かばんちゃん”ではない。それは本当の自分ではない」(自撮りしながら)

 と叫んで、かばんちゃんという名前を捨てていたはずである(SNS実況付き)

 しかし彼女はそうしなかった

 彼女は「かばんちゃん」という名前を受け入れた

 望んだわけでもないし、元になった動物の名前でも無いのに受け入れた

 本当の自分でも、ありのままの私でもない、その押し付けの名前を受け入れた

 かばんちゃんは何故かばんちゃんの名前を受け入れたのか?

 なぜなら、その名付けを断ったらサーバルとの絆が絶たれると直感したからだ

 『他者から呼ばれた名前こそが私の名前なのだ』

 その不条理な宣告に同意したものだけが人に成れると直感したからだ


@名付け

 名付けを受け入れることは役割を引き受けることだ

 誰かを呼ぶのは、必要だから呼ぶのだ

 助けてほしかったり慰めてほしかったり叱ってほしかったり

 何かを頼みたくて呼ぶのだ

 名付けを拒否することは役割を拒否することだ

 名前のないものを呼ぶことは出来ない

 だから名前のないものは何の役割も引き受ける必要がない

 いや、引き受けることが出来ない


@ヤリチン☆ビッチ部

 やっちゃんにとって『本当の自分』とは加島優のことだった

 加島みたいな人気者に成りたかった

 だから自分を偽って、成りたい自分を演じていた

 しかし、その演技も遠野の前で馬脚を現した

 やっちゃんは、認めたくない方の『本当の自分』を晒してしまった
 
 遠野はやっちゃんが猫をかぶっていことにショックを受けたが

 好き度は減らなかった

 やっちゃんが捨てたかった『私』、つまり『加島みたいな人気者では無い私』を遠野は受け入れた

 だから、やっちゃんは、救われた

 本当の自分という呪いにかからずに済んだ

 いま ここ のやっちゃんを遠野が受け入れたことで

 矢口恭介の自分探しの旅は終わった
 
 矢口恭介が最も恐れていたのは、お化けなんて可愛いものではなく

 『本当の自分』という呪いのことだ

 
@呪い

 本当の自分 と ありのままの私 は別のようで一緒である

 それは我慢の拒否である

 いま ここ に有る自分を我慢することの拒否である

 ここではないどこかに本当の自分が有る

 押し付けられた私を我慢しないで、ありのままの私を晒せばいい

 そうやって現に与えられている私というものを耐えられない状態

 それが自分探しの旅へと駆り立てる

 どんな人にも終生の友人が二人居る

 それは、いま と ここ である

 彼らは『どこ』に行こうと必ず人に付いてきてくれる

 だから、いま ここ に有る自分を我慢出来ない人間は

 一生、自分を探すことになる


@セルリアン

 セルリアンに食べられたフレンズは動物に戻る

 つまり、ありのままの私に戻る

 ありのままの私=動物には共通言語も記憶も無い

 つまり社会との交流を完全に絶った状態

 名付けを拒否し役割を捨てた、ありのままの私とは

 そういうものに成るのである

@10年代のテーマは現状維持

 いま ここ の私を受け入れる

 与えられた名前と押し付けられた役割を引き受ける

 そして当座の世界(いま ここ!)を動かしているものを守る

 具体的には困っているフレンズを助ける

 そういう地味な、ひたすらな地味な作業こそが人の仕事なのだ

 裏を返せば

 いま ここ の私を受け入れ無い

 与えられた名前と押し付けられた役割を引き受け無い

 そして当座の世界(いま ここ!)を動かしているものを壊す

 具体的には笑っている支配者を挫く

 そういう派手な、ひたすらな派手な偉業こそがヒーローの仕事なのだ


 けものフレンズブームは癒やしを求めたものではなくて

 ヒーローに頼らず、とりあえず自分たちでやって行こうとする成熟が呼んだものだ

 ヒーローを求める社会とは、もはや破綻した社会なのだ 

2017年3月29日水曜日

けものフレンズは神アニメだった

神アニメだった

考察はあとで書くけど

今はもうこれしか言えない

世界を肯定したくなるアニメ

めちゃくちゃ良かった

たつきありがとう


2017年3月28日火曜日

人生で一番長い一週間が終わる

けものフレンズことばかり考えた一週間だった

あとはもう信じるだけだ

泣いても笑っても今日で最終回

ガイドブックで、かばんちゃんの正体はネタバレをくらったけども

でもあの文章だとよくわかないからまだ決定では無いと思う

期待と不安でたーのしー

信じろ

セミ感覚でカメレオンを捕まえた、たつきを信じろ

2017年3月22日水曜日

けものフレンズ 11話 感想

@もう言うこと無い

 考察班のみなさんが素晴らしい考察をされているので

 ここに特別書くことも無いです

 見てる最中も泣いたし

 見終わっても泣いたし

 今も泣いてる

 『僕はお客さんじゃないよ』は名言ほんと名言

 客じゃないから身銭を切るし血も流す

 自己犠牲

 しかも木登りとか色んな伏線がちゃんとしっかりと入ってて

 素晴らしい

 ここにきてPPP予告もちゃんと異化作用として機能してる

 もうどんな最終回でも良い

 けものフレンズはなにかこう人類史的な物語の鉱脈を当てた

 みんなの心の何か大事なものを刺してくるアニメですね

 ほんとはかわいいフレンズたちをみて癒やされたいのに

 泣きたくないのに泣けるアニメ

 絶対ほっこり最終回

 たつきを信じろ






2017年3月21日火曜日

けものフレンズについて考える

@なぜ『かばん』ちゃんなのか

 カバンは中に何を入れてもカバンのままである

 カバンの中にトマトを入れてもカバンのままだし

 カバンの中にダイヤモンドを入れてもカバンのままだ

 つまり中身に左右されないフレンズ

 どんなモノでも受け入れて

 誰の感情移入も拒まない

 主人公の比喩として、コレ以上のものは無いとおもう


 かばんちゃんの中身が人だろうとセルリアンだろうと

 新生のミライだろうと関係ない

 かばんちゃんの中身が何であっても

 かばんちゃんは、かばんちゃんだよ という

 サーバルちゃんの願いがこめられてそう


@サーバルちゃんは、なぜ紙ヒコーキに見とれたのか

 かばんちゃんが作った紙ヒコーキを見て

 ミライさんが乗ってきた飛行機を思い出したからだと思う

 だからあんなにも恍惚としたのだろう


@服を脱ぐ

 服は個性

 フレンズの服はアニメを見る限りはみんな唯一無二

 つまりほとんどアイデンティティー
   
 服を脱ぐとは自分を捨てるということ

 フレンズたちが服を脱ぐことを知らなかったのは

 フレンズたちが元・動物だからというより

 『自分を捨てる』という発想が持てないからだと思う

 かばんちゃんだけが服を脱ごうと思えたのは

 『自分を捨てる』ことを理解できたから

 つまり今ある姿を捨てて別の姿に成れると『知っていた』から

 かばんちゃんだけはメタ視点を持っている

 かばんちゃんが自分を捨てて

 残るものとは???

 やっぱりかばんちゃんは